番外編:ギタリスト列伝 〜プリンスとマイケルジャクソン〜
知っておくべきギタリスト
こんにちは!
東京、池袋を中心に、新宿や中野など都内近郊にある完全個人レッスンのギター教室、エルギタースクールのブログです。
GWに入ろうかという時期で、お忙しい方も多いのではないでしょうか?
ミュージシャンにGWは関係ありません!(笑)
ありがたいことにお仕事をいただければいつだって忙しくなりますし、仕事がなければいつだってGWに突入してしまいます(汗)
※この記事はGW中に書いたものです。
ということで(?)今日はプリンスとマイケルジャクソンの関係性についてせまってみたいと思います。
〜実はライバル?お互いを意識していた〜
プリンスとマイケル、マドンナは同い年です。
すごい世代ですね。
その中でもプリンスとマイケルはお互いをライバルとしてものすごく意識していたとか、プリンスが一方的にマイケルを避けていたとか、仲が悪かったのではないかとか、様々な説が囁かれていました。
スターであるが故のことでしょう。
二人がそのことについて話をしていたわけではないので憶測のものがほとんどですが、今日は色々なエピソードを紹介してみたいと思います。
まずはデビューから、二人が交わるまでですね。
プリンスは1978年19歳の時にデビューしましたが、マイケルはなんと11歳の時にジャクソン5でデビューしている上にデビューシングルの「I Want You Back」から4作連続全米チャート一位という快挙を成し遂げています。
マイケルは71年にソロデビューもしていますので、もしかしたらプリンスはこの頃から同い年で先に売れているマイケルをすでに意識していたのかもしれません。
もちろん意識するのは、相手の音楽を素晴らしいと思えばこそですが。
プリンスはデビュー当時「17歳」だと主張していました。
実際は19歳だったわけですが(笑)
これは「スティービーワンダーの再来」というイメージを強調するためだったようですが、若くして成功したマイケルを意識したからでは??なんて憶測をする人もいるようです。
ジャクソン5はマイケルのソロデビュー当時(71年頃)、作詞作曲やプロデュースを自分たちでする権利をモータウンに求めましたが拒否され、その後レーベルを移籍しています。
プリンスはデビュー以来プロデュースまで含め、全てを自分で行うという契約をしています。
過去のギターマガジンにこういう記事が掲載されました。
「高校卒業後,レコード会社に何度かアプローチをくり返すうち,ついにその才能は大手ワーナーブラザーズの目に留まることになる。“レコード3枚で100万ドル”という破格の内容でワーナーと契約を交わしたプリンスだが,さらにこの19歳は生意気にも絶対に譲れない条件として“プロデュースは自身で行う”ことをレーベルに約束させようとする。さすがに腰の引けたワーナーは,ゲイリー・カッツ,ラス・タイトルマン,テッド・テンプルマンらビッグ・ネームのプロデューサーたちに掃除夫の格好までさせ,お忍びで偵察させるが,殿下はこのテストにも難なく合格。のちに殿下はインタビューで“現時点での目標は?”と聞かれ“掃除夫になりたい”という名言を残している。」
「殿下」はもちろんプリンスの日本での愛称ですね。
そして「プリンス」は実は本名です(驚)
マイケルは79年の「Off The Wall」で本格的にソロ活動を始めます。
プロデューサーにクインシージョーンズをむかえ、このアルバムは4つのトップ10、2つのナンバー1シングルを出す大ヒットになっています。
この頃プリンスのシングル”I Wanna Be Your Lover”はブラック・チャートでマイケルと拮抗していますし、マイケルもプリンスを意識し始めているかもしれません。
そして1982年、プリンスはアルバム「1999」で大ブレイク、マイケルは言わずと知れたモンスターアルバム「スリラー」が大ヒットします。
1983年には白人のビデオクリップしか流さないということで悪評高かったMTV(笑)が初めて黒人の二人、プリンスとマイケルのPVを流しました。
(厳密には初めてではないようですが、これをきっかけに黒人アーティストがビデオにも力を入れ始めたり、大きく門戸を開くきっかけになったようです。)
そしてこの年、プリンスとマイケルはファンクの帝王ジェームスブラウンのライブで共演を果たします。
共演といってもジェームスブラウンのライブを見に来ていた二人がステージに呼ばれたという形ですが。
マイケルは事前に打ち合わせがあったという話もありますが最初にステージに呼ばれ、かっこよくキメます。
一方プリンスはなかなか出てきません。
出てきたと思ったら、背中に背負われて、、、、、
ものすごく嫌そうですね(笑)
そして適当なまま、最後はセットを倒してステージを一方的に降りてしまいます。
突然とはいえ、プリンスほどのアーティストがワンコードのセッションで何もできないとは考えられませんし、おそらく本当に嫌でやる気がなかったのでしょう。
尊敬するジェームスブラウンだから仕方なく出て行った的な。
マイケルとプリンスの共演は、これが最初で最後になってしまいます。
〜その後の二人〜
その後も二人は精力的に活動を続けます。
マイケルは1983年に、自身の最大のヒットシングルとなる「Billie Jean」を発表し前年のアルバム「スリラー」も数々の賞と記録を叩き出します。
プリンスも1984年の「パープルレイン」が発表初週に100万枚を売り上げ、ビルボードチャートのトップに24週間も居座りつづける大ヒットをとばしました。
そして二人にこの後、共演の機会が訪れます。
1985年にマイケルがアフリカの飢餓救済プロジェクト「USA for Africa」に参加し世界的に有名な大ヒット曲「We Are The World」にはプリンスも呼ばれていました。
アメリカのみならず当時の世界のポップス界を代表する45人がレコーディングするため、スケジュール調整が難しく、アメリカン・ミュージック・アワードの授賞式直後にスタジオに集まり録音するというスケジュールでした。
約20人のアーティストにはソロパートがあり、プリンスにもソロパートがあったのですが、プリンスがスタジオに向かおうとしたところボディーガードが暴行問題を起こし、レコーディングに参加することができませんでした。
プリンスのソロパートは代わりにマイケルが歌ったそうです。
プリンスはマイケルを避けて行きたくなかっただけとか、プロジェクトに参加するとアーティストイメージが崩れるから行かなかったとか色々な説もありますが、プリンスはこの後公式に参加できなかったことを謝罪していますし、このアルバムに楽曲提供もしています。
本当に神様のいたずらだったのかもしれません。
プリンスは背が低いので、レコーディングに参加すると映像に残ってしまい、それがバレてしまうから行かなかった説もあります(笑)
そしてその後もマイケルは、これまた超有名曲「BAD」(発表前)でデュエットする話をプリンスに持ちかけます。
「BAD」の映像を見るとなんとなくわかりますが、「どちらがワルか」というのをプリンスとやろうと考えたみたいですね。
これも諸説ありますが、実際に一緒に食事はしたという噂もあります。
(会話は全くはずまなかったみたいですが(笑))
しかし話はまとまらず、今回も共演は流れてしまいました。
プリンスがマイケルの引き立て役になるのを嫌がったという話もありますが、プリンスがプロデューサーのクインシーに直接「この曲は自分が参加しなくてもヒットするよ」と連絡を入れたといわれています。
マイケルは音楽活動に邁進していましたがスターであるが故、様々なスキャンダルに巻き込まれてしまいます。
病気により肌が白くなってしまったのにそれを揶揄されたり、虐待なども噂されました。
マイケルは1700回以上訴えられているようですが、裁判に負けたことは一度もありません。
裁判による精神的苦痛や、仕事を進められないことに大きなストレスを感じていたようです。
その頃プリンスはワーナーとのトラブルもあり順風満帆ではありませんでしたが、相変わらずのハイペースな創作ぶりでかなりマイケルに差をつけていました。
マイケルはそんなプリンスが羨ましかったかもしれませんね。
マイケルはその後目立った活動ができず、2009年にこの世を去りました。
〜二人の関係〜
仲が悪いようなイメージを抱いてしまうエピソードはありますが、実はお互いにものすごく尊敬し合っていたのではないかと思います。
マイケルは自分の復活コンサートを09年に行おうとしていました。
そしてその会場に選んだのはプリンスが07年にショーを行ったのと同じ会場で、しかも公演数もプリンスより10公演も上乗せしたのです。
しかもマイケルは不眠症で体調がすぐれなかったのにもかかわらず、夜はアイデアが降りてくる時間だと創作活動に励んでいました。
周囲が心配して、
「休んだほうがいい。神様にお願いしてアイデアを棚上げしておいてもらえばいいじゃないか。」
と言ったらマイケルが、
「ダメだよ、そうしたらそのアイデアを神様はプリンスにあげてしまうかもしれないじゃないか。」
と返したというエピソードが残っています。
プリンスもあるインタビューで、
「マイケルと素手でケンカしたらどちらが強い?」
という記者の質問に、笑いながら
「彼は争う人じゃなくて愛する人だよ。」
と答えています。
マイケルが思うように活動できない頃や、裁判でもめている頃、プリンスは自分のライブでマイケルの「ビリージーン」を演奏したことが何度かあります。
記者会見でマイケルについて聞かれたプリンスは
「彼が帰ってこれるところを作ってやらなきゃね」
と答えています。
マイケルは自分の息子にプリンスという名前をつけていたりしますし(マイケル自身は親族の名前からとったと言っていますが、勘ぐりたくなりますよね)お互いに意識しつつもお互いのことは認め合っていたと思います。
実際、二人とも音楽的に化け物ですからね(汗)
プロとして音楽的に交わることはなかったわけですが、もし共演が実現していたらどんな音楽ができていたのでしょうか。
天国でセッションしていたら面白いですね(笑)
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